新婦の手紙 花束贈呈

新婦の手紙涙なくては読めず、涙なくては聞けない

言葉にこそしないものの、こころの中に感謝の思いがあふれることがありませんか?

あるときは友人に、あるときは兄弟に、あるときは先生に、あるときは見知らぬ人に。

そして彼女や彼に、また親御さんに、さらにはこの社会に。

そのことをいちばん感じさせてくれるのが

結婚ご披露宴で親御さんへ花束や記念品を贈呈する場面でしょうか。

そのとき新婦の読む感謝の手紙は涙なくては読めず、涙なくては聞けない感情になります。

もちろん、そうならない人もいるでしょうが、

少なくとも私は、昔もいまも同じような感情に襲われます。

花束贈呈はやりたくない!?<

さて、花束や記念品贈呈の場面のことを「お涙頂戴」の場面だと揶揄されたことがあります。

「人の前でするようなことではない」と言う人もいましたし、

いまもそう感じる人がいると思います。

普段から親御さんに感謝を示しているので、

あらたまって感謝することもないと言う人もいます。

また、新郎新婦は感謝の場面に意義がなくても

親御さんが「アレはいやだ」と言うこともあります。

どれが正しくて、どれが正しくないとか言うつもりはありませんが、

みなさまはどう感じますか?私は肯定派です。

子育てにあまり苦労はしていないと口にする親御さんもいますが、

苦労をしなかった母親はいないと思います。

新婦の感謝の手紙

新婦が「お父さん、お母さん、長い間ありがとうございます」と

感謝のメッセージを読み始めます。会場中が耳を澄まします。

「小さいころ体が弱かった私が熱を出すたびにお母さんが寝ずに看病していたと、

亡くなったおばあちゃんから聞きました」。

可愛がってもらったおばあちゃんのことが触れられます。

「その頃のことはあまり覚えていないけど、いま好き嫌いがないのはお母さんのおかげです」。

さらにお母さんが朝早く起きて自転車通学の自分に欠かさずお弁当を作ってくれこと。

そして「お父さんが一生懸命働いてくれたことを忘れないでね」と話してくれたことなど、

親御さんや家族への感謝の思いが披露されます。

言葉にならないメッセージ

ご披露宴で新婦の読む手紙を

「涙がなくては読めず、涙なくては聞けない感情になる」と書きましたが、

実はすべてがそのようになるわけではありません。

そうなることを期待しても「あっさり」としている場合も、

「笑い」につつまれることもあるのです。

だからと言って感謝の量が違うわけではありません。

表現の仕方が違っているだけです。

世間で言われがちな

「お涙頂戴」と揶揄される場面にあるのは「感謝の思い」であり、

「越えられない親の壁」を越えようとする子供たちの「幸せの決意」です。

そして親御さんが受け取る思いは

「どこか甘酸っぱい、静かなよろこび」と「子供たちの幸せをさらに願う」思いでしょうか。

感謝の手紙の向こう側にある「言葉にならないメッセージ」を

ゲストは感じ、共有し、同じように幸せな気持ちになるのだと思うのです。

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